「産業」を「産む」と「業(カルマ)」で考えてみたらカルマの考え方が深くてカオスになった④

真夜中にふと、こんな事を考えたら
思考が止まらないです…。

「産業」について調べ始めたら、
産業という漢字の語源が知りたくなって
それぞれの漢字の語源を調べ始めたら
意味が深くて、そう簡単には話をまとめられない内容にまで発展している状況です。。

「むす(産)」は「うむす(産むす)」の「う」が取れたものとされ、自然に発生するといった意味がある。「苔生す(こけむす)」の「生す」も同根である。「ひ(霊)」は霊的・神秘的な働きのことである。神道においては、万物は「むすひ」の働きによって生じ、発展すると考える。神道において重要な観念の一つであり、その意義は江戸時代以降の国学者によって論じられた。*Wikipedia抜粋
会意文字です(彥の省略形+生)。
「人の胸を開いてそこに入れ墨の
模様を書く象形と険しい崖の象形と
つややかな髪の象形」(「険しい崖
から得た鉱物性顔料(着色料)」の
意味)と「草・木が地上に生えて
きた」象形(「生まれる」の意味)から、
生まれたばかりの子に顔料を塗る
習慣があった事から、「うむ」を意味
する「産」という漢字が成り立ちました。
※「産」は「產」の旧字(以前に使われ
 ていた字)です。*ok辞典抜粋
象形文字です。「のこぎり状の
ぎざぎざの装飾を施した楽器を
掛ける為の飾り板」の象形から
「わざ・しごと・いた」を意味する
「業」という漢字が成り立ちました。
業という漢字を、業(ごう)という読み方で調べると、
業(ごう)とは、カルマ(梵: कर्मन् karman[注釈 1])に由来し、

行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語[2]。

原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、特に暗いニュアンスはない[3]。

仏教およびインドの多くの宗教の説では、

善または悪の業を作ると、

因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる[2][4]。
業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。仏教はすべての結果について「偶然による事物の発生」「(原因なく)事物が突然、生じること」「神による創造」などを否定し、その原因を説くのである[5][6]。
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[7] これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる[8](善因善果、悪因悪果)[9].。*Wikipedia抜粋

と、いう事で
業カルマとは、単なる行為という意味で、
そこに、善悪をつけているのは人なんだと言う事です。
そして、
業(カルマ)に、善悪を作ってしまうことで、
苦楽の報いが生じる…
その連鎖というのも全てその人が作っている。

この事を知ると、
いつでも自分は善悪を取らずにフラットに物事を見た上で自分の行動を選択する事が出来る。

何かを悪と見なした時、結果そこにエネルギーを送っている事になるので、悪と見なしたものエネルギーが増幅するだけで、更にはその時の自分は
本当の在りたい自分には存在していない事になるので、、
それよりも
自分に集中して、自分の在りたい自分を選択し続ける。

とはいっても、

善悪って、神様の時代から存在していそうだし、
常に物事をフラットに見るのはとても高い視点から俯瞰していないとなかなか出来なさそうです。
だって、
地球自然環境破壊とか人体破壊に影響するようや
産業があり続ける事の意味って、、

結局そういう状況を私達に見せる事で
私達一人一人の選択の覚醒に貢献しているのでしょうか…。
とにかく善悪で物事を捉えるより
中立に物事を捉えて
そこから自分はどう動くか、、
という
結局のところ、行動がとても重要です。。

例えば、森林破壊が自分的には苦しく感じるので
少しでも環境に優しそうな
オーガニック食品を選ぶ様にするとか、、
そういう出来る事から行動を変える事が
産業の変容に繋がっていくと信じてます。

「産業」について考えたら、
地球自然環境破壊と自分破壊に辿り着き、
オーガニック食品や無農薬栽培の物に興味を持ち始め、
「産業」という漢字の語源を調べたら、
産む業[カルマ]という発想に辿り着き、
カルマを調べたら、
そもそもカルマとは単なる行為で、
善悪という色もない。本当は。
でも人は善悪を作ってしまってきたので
その再生を繰り返しているのだと思いました。

地球環境破壊を引き起こす産業というものは
一体何なのだろうか…
どう考えても悪い業(カルマ)なのだと思いますが
悪い再生を断ち切る為には
地球人単位での覚醒的な変容が必要な気がします…

更に調べると、
「業」と「行」に辿り着きました…。
安泰寺というお寺のHP内容に辿り着いたのですが、
内容が興味深いので貼り付けておきます。

こんな事が書かれています。

「業によって振り回されながら生きることと、

行願を立てて生きること、これほどかけ離れた二つの生き方はないでしょう。」

もちろん、一般に言われている「修業」の「業」という字は仏教用語の「ごう」ではなく、「わざ」という意味で使われているのですから、「修業」とは「わざを修める」ことです。日本に何十ヶ所も存在している禅の修行道場は実際のところ、そういう意味で「修行」道場よりも「修業」道場と言われなければなりません。衣と袈裟を着こなし、足袋をはいて畳の上で参拝して拝んだり、お経を読んだりして、一人前のお坊さんになるための「修業」をします。しかし、こうしてできあがったお坊さんはもうはや一つの「職業」に過ぎません。」

安泰寺 – その4 業と行

さて、「大人の修行」という言葉の意味ですが、「大人」の意味をハッキリさせる前にはまず「修行」について考えたいと思います。今年の「帰命」の2月号では「坐禅」と「座禅」の違いについて書きましたが、「修行(しゅぎょう)」と「修業(しゅうぎょう)」を間違う人もまた多いようです。「坐禅」と「座禅」と違って、「修行」と「修業」は字も発音も異なりますが、その意味も全く違うと言ってよいと思います。 業によって振り回されながら生きることと、行願を立てて生きること、これほどかけ離れた二つの生き方はないでしょう。もちろん、一般に言われている「修業」の「業」という字は仏教用語の「ごう」ではなく、「わざ」という意味で使われているのですから、「修業」とは「わざを修める」ことです。日本に何十ヶ所も存在している禅の修行道場は実際のところ、そういう意味で「修行」道場よりも「修業」道場と言われなければなりません。衣と袈裟を着こなし、足袋をはいて畳の上で参拝して拝んだり、お経を読んだりして、一人前のお坊さんになるための「修業」をします。しかし、こうしてできあがったお坊さんはもうはや一つの「職業」に過ぎません。結局、葬儀屋の下請けでお坊さんを演じるという職業が、2500年前に釈尊が広めいた教えとほぼ縁が遠いであることは、言うまでもありません。釈尊が教えていたのは人間の生き方ですが、その生き方を実践すること、実際に実行に移すことが我々がしなければならない「修行」です。お坊さんになるための「修業」ではありません。また、これから仏・菩薩になるための「修業」でもありません。今ここ仏・菩薩の自覚をもって、仏・菩薩を実際に生きる毎日が本当の修行です。 仏教の中でも違う「修行」の解釈があります。人間が仏になるためには、永遠に近い長い時間の「修行」が必要だとされています。その永遠に近い時間の間、人間は菩薩として功徳を積み、やがて仏になろうとして頑張り続けます。人間がえらくなって菩薩になり、菩薩がさらにえらくなって仏になると言う考えです。禅から見れば、こういう人間が「えらくなる」という「修行」はやはり修行ではなく、あくまでも「修業」に過ぎません。人間がたとえ永遠にこうした「修業」を積んでも、菩薩とはいえず、仏ともいえません。ハッキリと、「凡夫」といいます。禅では、こうした凡夫の計らいを止めにし、仏という自己の本来の力に任せ

antaiji.org

産業という名の地球環境破壊との関連を考えだしたら、
そもそも私達、人という存在自体が
カルマであって、
自分がどのカルマを選んで、
この命を生きているのかを知ることとかって
とても重要なことだと思いました。
もともとはカルマには善悪はないですが、
自分の祖先が善悪を作っていたら
それは代々再生されて
自分自身にも引き継いでいるカルマがあると思います。
なので、
そもそもカルマに善悪はないのだ!という事に気付いて、
先祖からのカルマを自分の世代で断ち切るぞ!
という意志決定のもと、
新しい自分として楽しく面白く
自分設定をして
自分の産業を創り出すのが面白そうだな。

誰かが良いと思っていても誰かは悪いと思う様なカオスな世界。

こういう事を考えると更に
量子力学の世界に繋がっていき、、
思考が止まらない。
とりあえずブログにつぶやいておこうっと。。

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