ハートだらけは馬鹿なのか?
人は幸せに制限をかけて生きているのかもしれない。
昔、近所にある老舗のカフェギャラリーで、
ハートだらけのMiho展を行なっていた最中にケーキを買いに来たおばさんに
カフェギャラリーのオーナーが 、
「良かったら絵の展示やってるから作品見て行って」と、声をかけたのだが、
おばさんは作品をパッと見回して、
「幸せ過ぎて馬鹿になりそう」とだけ言い放って その場を去って行った。
正直、そう言われた瞬間に
何故、あなたの頭の中では幸せと馬鹿が=(イコール)で結びついているのですか?と 訪ねたかったのだが
こういう人に突っかかるのはやめておこう…。と、ここはぐっと抑えて 沈黙を貫いた。
あの展示開催からかれこれ約14年が
経過した今。
今何故かフワっと5時も終わりそうな
早朝の時間に目覚めてしまい
何故かこの記憶が呼び覚まされて
ケータイに メモをとっている。
なぜ14年も経過したあの情景を今思い出し、こんな風に布団の中で暗い中思い出しているのだろうか…
なぜならそれは多分、私の中で
あの時、あのおばさんに
どういう一言をかけるのが正解だったのか が、ずっと私の中での答えが出ずにいるから、、というか
その都度出てくる答えのような言葉が違うから。今が経過する以前にも私は何度かこの事を思い出していた。
年月を経ては その事が思い出され
思い出されるたびに自分の中で
答えが変わっていく…。
そして今、今の私から出てきた言葉は
人は幸せに制限をかけて生きているのかもしれない。ということだ。
幸せ過ぎて馬鹿になりそう。っていうのは、幸せになる事に対して怖れを抱えているから出てくる言葉ではなかろうか?
もしくは、その人の中で
幸せ=(イコール)何も考えてない人=(イコール)馬鹿に繋がっていたのか…?
やっぱり もうこれはあの時のあの瞬間のあのおばさんに尋ねるべきだったんだ。
いつまでもスッキリしない私。
でも、それにしても、幸せに制限をかけて生きている人生に幸せは訪れるのだろうか?
幸せ過ぎる事に申し訳なさを感じてしまう 日本人?
幸せ過ぎる事に申し訳なさを感じてしまう その世代?
幸せ過ぎる事に申し訳なさを感じてしまう その環境?
幸せ過ぎる事はそんなにいけない事なのか?
私がもし幸せ過ぎたら 人にお裾分け出来る幸せなことが増えるのではないだろうか?とも考える。
人によって幸せの定義が違うとはこのことだ。だからなんぼ私の中で考えたって答えは出てはこないんだ。
とりあえず、
今の私から出てきた言葉は、、
「幸せ過ぎて感謝しか出てこない」そんな自分でありたいと思った。
幸せ過ぎる事に馬鹿が出てくるのではなくて、
幸せ過ぎる事に感謝が出てくる自分でいたい。
そもそもその当時行なっていたハートだらけのMiho展というのは
ハートしか描きたくなくてどーしてもハートしか描きたくなくて
ハートだらけになってしまったのだけれど、内心、こんな絵なら私にも描けるし!って思われるのかも、とドキドキしながらも、
ええぃ!やってしまえ!だってハートしか出てこないんだもん!今の私のまま、そのままを表現して何が悪い?
と誰からも責められているわけでもなく内心自分で責めているだけなのだが
何故ハートしか描きたくなかったのかといえば、
自己内の世界に入っていくと
じんわりじんわりと、何とも言い難い程の感謝の気持ちの愛が溢れてくるのだけれども、
つまり、愛しか描きたくなかったから。
そして私の中での愛を表現するための単純形態として出てきたのがハートだったから。
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